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【渡部 鼎(2)】 後に政友会 衆院議員に  〈11/6〉
 
大正12年、父思斎の顕彰碑除幕式での渡部鼎(中央の軍服姿)。鼎の1人おいて左が鈴木恒松
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 野口清作を書生とした渡部鼎についてあまり知られていないので、鼎を育はぐくんだ風土とともに少し紹介しよう。

 村医の長男として出生

 鼎は河沼郡野沢村(現西会津町)で村医をしていた渡部為助(号を思斎といった)の長男として、安政5(1858)年に生まれた。清作より18歳上である。

 渡部家は思斎から数代前に隣村である萱本かやもと村(現西会津町尾野本)の端村・筧口といのくち(樋ノ口)から、野沢原町のざわはらまち村(現西会津町野沢)に移転した。思斎は8歳の時に父と死別、盲目の母を助けて会津藩の医学校を修了し、野沢で医家を開業した。思斎は若いうちから同村の指導者となり、地方の医療・教育・文化に携わっていた。

 思斎は慶応2(1866)年に私塾「研幾堂けんきどう」を創設、法政、経済、文学、医学の4科を設けた。「研幾堂」には多くの逸材が集まり、その中には息子の鼎はもちろんのこと、自由民権運動家として名を馳はせた小島忠八父子、山口千代作、アダム・スミス『富国論』のわが国最初の翻訳者である石川暎作、郷土の教育に貢献した鈴木恒松などがいた。

 鼎は東京に出て勉学したい旨を両親に告げた。そのことを聞いた思斎は「新しい時代になっており、志を高くして勉学に励め」と鼎を送り出した。明治五年、鼎が14歳の時であった。

 現東大、米大学で学ぶ

 当時、名を馳せていた横浜の高島学校に入学、福沢諭吉、星享、河村敬三や外国人のジョンバラ、モリスについて英学や各国史を修学した。鼎は医学に志を向け、ドクトル・セメンズ、ドクトル・ウィリアムに師事、翌年には大学東校(現東京大学医学部)に通学、明治10年には警視局医師試験に合格、西南戦争に従軍した。その後、大阪や東京で軍医を務めたが、明治18年渡米、カリフォルニア大学医学部に入った。

 明治21年に大学を卒業しドクトルの学位を取得すると、サンフランシスコで医院を開業した。その時に、後に英世の恩師となる血脇守之助と鼎とを結びつけたインディアナポリスに学んだ新進気鋭の医師、田原利と知り合うことになる。

 時を経ずして明治22年に父思斎が脳卒中のため世を去ることになり、鼎は帰国することを決意、ヨーロッパ各国を視察して、翌年に若松に会陽医院を開業することになる。洋行帰りの医師の鼎は、大変な評判となっていた。

 明治27年に日清戦争が始まると、鼎は召集され出征することになる。医師のいない医院は1時閉鎖され、古参の書生と清作を除いてはほかの医院に移ることになる。清作は鼎に留守の間の会計係を任されることになるが、医院を采配さいはいしていた女性と鼎夫人との確執に巻き込まれ、窮地に陥ることになる。16歳の清作にとっては耐え難いことだったようで、小林栄に医院を辞職したいと訴えた。栄は「師の不在の時に医院を離れるとは不届き千万、目標を見失うことなく耐え忍びなさい」と叱咤しった、清作は思いとどまった。

 鼎は婦人の束髪運動にも積極的であり、明治35年には政友会所属の衆議院議員にもなった。明治38年には日露戦争にも出征、帰国すると、東京・日比谷でドイツから輸入したラジウム原素をもって治療する日本初の病院を開業する。大正四年、英世が帰国した時、再会して英世は恩師への感謝を述べている。

 鼎の2人の娘は、アメリカ独立宣言の起草者フランクリンと血縁にあるアルウェン家に嫁いでいるのは、鼎の影響でもあったのか。鼎は大正6年、病気をしたのを契機に若松に転居するが、昭和7年、東京で亡くなった。75歳であった。墓は故郷の西会津町樋ノ口にある。
◇ひとこと◇

 渡部鼎の父思斎の弟子鈴木恒松のひ孫に当たる西会津町の鈴木仁さん(76)

 歴代の当主はみな勉強家で、恒松も子どものころから大変な勉強家だったらしい。教師になってからは「読み書きそろばんも必要だが、人間教育が最も大事」と教え、自身も毎朝3時に水を浴びて心身を清め生徒を教えたと聞いている。
 
 
 


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