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【渡部 鼎(1)】 清作の才能を高く評価  〈10/30〉
 
アメリカ・サンフランシスコの医院応接室でくつろぐ渡部鼎
【8】
 
 「清作君の指は切り離せるかもしれませんね」

 野口清作は若松で開業していた会陽医院の渡部鼎から言われた。清作は、驚きとともにうれしさを隠せなかった。心配していた猪苗代高等小学校の先生や同級生、母や家族に一刻も早く知らせなければならないと足早に猪苗代に帰った。

 手の手術で進路に影響

 明治25年10月、清作の手は鼎によって執刀された。摺古木棒すりこぎぼうのようになった清作の左手に局部麻酔を施してから、2節目から丸く1つに癒着している5本の指を一本一本切り離し、それに一つ一つ添え木をし、幾重にも包帯をした。手術は無事に終え、しばらく入院することとなった。ひと月ほどしてから退院することになり、指が動くことを実感した清作は、医学の素晴らしさに感動した。

 予かねてより、清作は高等小学校卒業後の進路を小林栄に相談をしていたが、清作はきっぱりと「先生、俺おれ、医者になることに決めました」と断言した。鼎の見事な手術は、清作に固い決心をさせた。

 清作は栄から「医師への志をするのであれば、渡部先生のもとで勉強するのが一番良い。誠心誠意頼むんだぞ」と言い含められて会陽医院を訪れた。鼎は河沼郡野沢村(現西会津町野沢)の出身で、大学東校(現東京大学医学部)で医学を学び軍医となった。その後、アメリカ・カリフォルニア大学で学位を取り現地で医院を開業していたが、父が亡くなったのを機に帰国し、若松で開業していた新進気鋭の医師であった。

 玄関番はあまりにも貧しい格好の者だったので鼎に取り次ぐのをためらったようだが、以前に手術を受けた少年だったので、診察が終わるまで待つようにと控室に案内した。

 鼎は診察があったのか清作の前にはなかなか現れなかった。清作は熱心さを試されているのだと思い辛抱して待っていると、ようやく鼎の診察室に案内された。鼎は清作の必死の思いを静かに聞いた。「よし分かった。今差し当たって書生は要らないが、明日からでも来たまえ」と答えた。

 当時、会陽医院に書生として入るには、身の回りの衣類や食事などは自前であった。清作の事情はそれを許さなかったので、入れるかどうか不安であった。しかし鼎は清作の才能を見込んで、それらを免除してくれた。清作は鼎の温かい言葉に何度も何度もお辞儀して感謝した。

 仕事の合間に勉強教える

 清作は鼎の期待に応えるように、昼間は医院の仕事を、夜は医師試験の勉強をした。鼎は仕事の合間に清作に英語と医学を教えた。鼎は清作の勉強ぶりに目を見張り、その才能を高く評価、大勢いる書生の中でも、喜多方から来ていた吉田喜一郎と二人きりの部屋をあてがってくれた。

 清作が明治32年2月に書いた履歴書によると、会陽医院時代に会津中学校では課外特選生として普通学を、3人のフランス人からはフランス語と博物学を、文学士佐竹元二からはドイツ語を学んでいる。

 働きながらとはいえ、清作にこのような機会を与えた鼎の清作にかける思いは並大抵のものではない。明治27年、鼎は日清戦争に出征すると、清作に会計を任せることとなる。古くからいる書生を差し置いてこのような仕事を任せたのは、清作に対する信頼と能力を見込んでのことであった。そのことによって古参の書生たちから僻ひがまれて、立場が悪くなりはしたが、清作は最後まで鼎の期待に応えた。鼎は野沢の実家を妹に継がせるため、清作を養子に迎えようと白羽の矢を立てたが、実現には至らなかったようだ。
◇ひとこと◇
 渡部鼎の妹の孫に当たる西会津町の渡部憲さん(60)

 鼎は本来、西会津町で父思斎が営む研幾堂医院を継ぐはずだった。しかし、渡米したため祖母が婿養子を迎えて同医院を継いだ。その後、医院は人の手に渡り、20年ほど前に廃業。鼎直系の子孫は東京や九州などにおり、年に数回、墓参りに西会津町を訪れる。
 


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