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 【宮原立太郎  義兄弟の契り固く結ぶ【2/12】
 

宮原立太郎

宮原立太郎(右)と英世
【30】
 
 明治38年3月、宮原立太郎は、医学研究のためアメリカに渡った。当初、立太郎はドイツに行く予定をしていたが、当時、日本とロシアが戦争をしており、ロシアと友好国であったドイツ行きは断念せざるを得ず、日本と友好国のアメリカを選んだ。

 ニューヨーク大学大学院とコロンビア大学で内科学を学んでいた立太郎は、日本語新聞『日米週報』や日本を紹介する英字新聞『ジャパン・アンド・アメリカン』を発行していた星一と知り合うことになる。

 アメリカで医学のことについて話のできる人がいなかった立太郎は、翌年になってから星に「ニューヨークに誰か有名な日本人はいませんか」と尋ねた。星は即座に「野口英世を訪ねなさい。彼はペンシルベニア大学にいて、デンマークへ留学、今はロックフェラー医学研究所に入っている立派な人物だ」と答えた。

 立太郎はしばらくして、ロックフェラー医学研究所に英世を訪ねた。世界一の大富豪の研究所と聞いていたので、さぞかし立派な建物だろうと想像していたが、貧弱なところだったので驚いたとの感想を記述している。

 それもそのはず、ロックフェラー医学研究所は設立されたばかりで、新しい建物を建設中のため、英世たちは仮住まいであった。立太郎は英世の研究室を見せてもらって、いろいろ質問をした。英世は立太郎の熱心さに気を良くしたのだろう、二人はたちまち意気投合したという。

フラット借り共同生活

 明治39年9月、ロックフェラー医学研究所は新築され、英世の研究室も移転した。英世はその機会に新築の研究所から200メートルほど離れたところにフラット(同一階に一戸構えの間取りのあるアパート)を借りた。部屋は5室あり、立太郎と英世は共同生活をすることになり、1室で医院を開業することになった。

 立太郎は苦学しながら大学に通学していたので、ここで多少の蓄えをしてヨーロッパに行くつもりだった。新聞などを通じて宣伝はしたが、それほど繁盛した様子もなく、フラットでの生活は翌年の3月で終わった。

 フラットでの生活では、立太郎が英世より1歳3カ月ほど若いこともあり、食事の世話やこまごましいことなどは立太郎が行い、女房役的なことをしていたようだ。ここでの生活で、2人の絆きずなは揺るぎないものとなった。

 立太郎はニューヨーク大学でエックス線の診療方法を体得し、明治40年3月、ヨーロッパを経由して帰国することになった。このことを英世に打ち明けると、立太郎は英世から「義兄弟の契りをしてほしい」と真剣な眼差まなざしで相談された。英世は日本に残してきた両親のことを心配、立太郎に様子を見てもらいたいと頼みたかったのだ。

英世の頼み誠心誠意実行

 立太郎は、英世の頼みを素直に受け入れた。実際に英世の母シカや小林栄夫人が病床に伏した時、立太郎は東京から猪苗代まで出向いて診察したり、処方箋せんを送ったりして英世の頼みを誠心誠意実行した。

 大正4年、15年ぶりに帰郷した英世の滞在中、気軽に話せる立太郎は、宿舎にしていた帝国ホテルに英世を時々訪ね、公式行事で忙しい英世を何とか休ませようと、天ぷら屋や中華料理店、浪花節の寄席などに連れて歩いた。また、立太郎は英世だけでなく、シカや小林栄夫人の東京見物に妹八重をつける配慮も怠らなかった。

 立太郎は明治11年2月1日、千葉県市原郡惣社村(現千葉県市原市惣社)の名主の家に生まれた。アメリカから帰国すると、東京で宮原病院を開業させた。レントゲン治療では、日本で先駆的役割を果たしたが、手にレントゲン線がんが発生、5回ほどの手術をしたが、昭和11年8月9日、自宅で亡くなった。58歳であった。
 


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