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【小林 栄(1)】 「恩師への手紙」(上)  〈10/12〉
 
野口清作が16歳の時、恩師小林栄に出した手紙。明治26年3月5日付
【3】
 
 教師であり生涯の恩人

 野口英世の青春時代の手紙が数多く発見され、英世の生誕130年を記念して、154通の手紙が一挙に公開された。これだけの手紙が世に出るのは、近年ではこれが初めてのことで、当時の英世を知る手掛かりのものとして注目されている。

 この手紙は、猪苗代高等小学校の教師であり、英世の生涯の恩人である小林栄に出されたもので、まだ、清作と呼ばれていた時のものがほとんどである。

 百十数年の間、蔵にしまったまま開けたことのないものなので、墨も紙も真新しいままで、昨今書かれたものと見まごうばかりである。

 手紙の原本は、野口英世記念館の展示スペースが限られているので、20通しか展示していないが、『野口英世書簡集Ⅳ』誌上で、154通の手紙を全部公開している。この冊子は当館で頒布している。

 その中から、幾つかの手紙を紹介しよう。

 転任に対し反対運動

 まず、一番最初に出された手紙は、明治26年3月5日付のもので、英世が16歳の時のものである。差出先は「若松町横三日町相田又作様方 小林栄様」となっており、英世の差出人住所は「猪苗代町新町警62号寄宿舎内野口清作」となっている。

 この年は、清作が猪苗代高等小学校卒業を控えていた時で、何かと慌ただしい様子がうかがえる。栄が猪苗代にいる間は、手紙など出す必要がなかったが、栄が病気療養のため若松に行ったので手紙を出すことになったようだ。

 清作の差出住所地は新町とあるが、この近辺には当時、警察署や役場など公共施設があったところで、「警62号寄宿舎」とは、その公共施設の1つかとも思われる。

 高等小学校へ通っていた生徒たちで、遠くからの生徒は、冬には通い切れないので、町内に下宿したと書かれている。しかし清作は、冬でも4年間通い続けたとある。この施設が寄宿舎だとすれば、なぜそのような施設から手紙を出したか疑問が残る。

 文面には栄の病気の心配をしていることに続き、「学校の事は小生の及ぶだけ尽力致すべく候間、ご安心奉り願い候」と書いている。当時、栄が隣村の千里小学校への転勤の話が出て、栄が担任していた清作を含む生徒が、転任反対運動を起こしていたことに関係したことと思われる。


 生徒たちに気象観測

 また、手紙の中に「天気予測は怠らず相勤め居り候」とあるが、清作が栄の自宅にあった観測所のことに関しての記述と思われる。

 当時、栄は中央気象台からの委託を受け、自宅に測候所を設け、福島測候所と連絡を取り、気象観測をしていて、その仕事を清作たちが手伝っていたものと推測している。

 明治21年7月15日、磐梯山が突然大爆発を起こし、500人近い人が犠牲となったが、栄はこの噴火活動について学術雑誌に多く発表している。いつごろ自宅に測候所を設けたかは判明していないが、栄は一人観測をするだけではなく、生徒たちにも観測を体験させていたのではないかと思う。

 栄は気象観測のデータを農業技術の改良にも応用し、地元農民にその技術を伝達している。教員ではあるが、自宅でも農業を行い、県の農業技術員とも交流を図り、新品種にも取り組み、多くの実績を残している。栄は実体験から生きた内容を生徒たちにも教えていたことをうかがい知ることができる。

 清作は学校に行く前に、家の仕事をしたりして、登校時間がいつもぎりぎりであった。

 一緒に通っていた同級生は、清作と登校する時に、清作は太陽の位置から正確な時刻を計って、「急いで行かなければ」とか「ゆっくりして良い」とか言っていたという。科学的素養は高等小学校時代から培われていた。
 


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