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 【石塚 三郎  歯科医学院で苦楽共に  〈1/25〉
 

大正4年、新潟に行く途中、野沢駅構内で撮られた石塚三郎(右)と英世
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 大正4年、野口英世に帝国学士院恩賜賞が授与された。故郷をはじめ多くの人たちは英世の帰国を待ち望んだ。英世は帰国をせず、恩賜賞の受け取りは恩師である血脇守之助に依頼した。

 友人である石塚三郎は、その年の4月19日、自分が所属する写真倶楽部の撮影会が磐梯山と猪苗代湖畔で行われた時、小林栄の案内で英世の母に会いに英世の生家を訪れた。日は暮れかかり、しかも雨が降っている悪条件の中、姉イヌが掲げるランプの光でようやく母シカの写真を撮った。三郎は帰宅後、直ちに写真を焼き5月15日に次のような手紙を英世に認したためた。

 「小林先生を訪ね、一緒に三城潟のお母様をお見舞いしました。薄暗くなりましたのでお姉様の手を借り、ランプの光で撮影しました。ご覧の通り、お母様は頬ほおが痩せ、顔色衰え心身ともに疲労しており、最早もはや長く生きられないと思います。この際、万難を排し帰国しないと、後日後悔することでしょう。君の英断を望みます」

 英世は送られてきた母の写真と三郎からの手紙を読み、三郎の進言を聞き入れ、直ちに帰国を決心した。

 英世は日本各地からの講演や歓迎会で忙しい日々を過ごして再渡米することになり、猪苗代での送別会の席上、来訪していた三郎が同席していた。母が歯が悪いため、ご馳走ちそうの牛肉が食べられないことを知った英世は、集まった人の前で「歯科医の友人がいながら母の歯には気が付きませんでした。私は親不孝者と思われますので、必ず歯を入れてもらいます」と約束した。三郎は翌年、母シカ、小林栄夫人のシュン、シュンの姉坂スミの3人を自宅に1カ月滞在させて義歯を作った。

出会いは明治30年4月

 英世と三郎との出会いは、明治30年4月、先に英世が入所していた高山歯科医学院に三郎が入り、英世と同じ部屋で共同生活をしたことに始まる。2人とも明治9年生まれの同級生、しかも2人の境遇は似通っていて相通じるものがあった。

 三郎は新潟県北蒲原郡安田村(現新潟県阿賀野市安田町)の農家の二男として生まれ、素封家旗野家(歴史地理学者吉田東伍の生家)に奉公に入り、同家の主人餘太郎から漢詩文、測量法などを学んだ。主人の命により、医師を目指して17歳で上京、吉田東伍や新潟県出身で衆議院議員などを務めた市島謙吉の援助を受け、神田大成学館で働きながら学ぶ。明治27年に健康を害し帰郷するが、向学の思いは断ち切れず、同29年に再度上京、血脇守之助のもとに足しげく通い、翌年に高山歯科医学院に入った。

 学院では同い年の英世と苦楽を共にし、明治30年に英世が医師開業試験に、翌年に三郎が歯科医師開業試験に合格すると、学院の講師として共に協力することになる。英世が学院を離れることになっても、三郎は学院の幹事となって守之助を支えることになる。

 三郎は明治33年になると、長岡で歯科医院を開業、市議会議員や守之助が創立した東京歯科専門学校の評議員、衆議院議員などを歴任。また、アマチュア写真家として、素晴らしい作品を残している。

「記念会」の創立に参画

 昭和3年、英世がアフリカで殉職の後、英世を顕彰する財団法人野口英世記念会の創立に参画。昭和24年に理事長に就任するとともに、余生を親友野口英世にささげることを決心、東京・新宿区大京町に取得した土地を野口英世記念会に提供した。三郎は昭和33年11月23日、82歳で亡くなる。三郎は自らの著書『わが友野口英世』の中で「野口博士の功績は、ひとり科学の方面ばかりでなく、政治、外交、経済、貿易にも大きな足跡を残した」と書いている。

 祖父が親友だった新潟県新発田市の佐藤泰彦さん(79) 石塚先生には衣食住の厳しかった戦後、歯学生だった私の身元保証人と下宿を引き受けてくださった。規則正しい日常生活の実践家で、自らを律し酒、たばこはたしなまず「松籟」と号し朝夕静かに漢詩を吟じ、野口記念館建設に東奔西走の日々であった。
 


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