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   【松江 春次】   ともに「師弟教育」へ力 〈1/18〉
 

会津中学校の生徒たちと一緒に写真に納まる清作(中列右から2人目)、松江春次(後列右から2人目)
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 松江春次が野口清作(後の英世)と最初に出会ったのは、春次が会津中学校在学中、若松の会陽医院長の渡部鼎に診察してもらった時であった。春次と清作とは同い年だったこともあり、ウマが合ったようだ。

 清作は、会津中学校へは正式に入学しなかったが、特選生として通学していて、春次と一緒になって学ぶこともあり、春次は清作に中学校のノートを時々貸していたという。
 春次は家が裕福ではなかったので、会津中学校を卒業すると、家の手助けをしようと湊村(現会津若松市湊町)の小学校で代用教員として勤務した。

 東京高等工業学校に入学


 しかし、春次の向学心は消えず、進学への意欲を持ち続けた。そのことを知った父久平は、田畑を売ってでも学費を出すからと進学することを認め、明治29年、工業学校の名門校、東京高等工業学校(現東京工業大学)の応用化学科に入学、製糖学と醸造学を専攻科目に選んだ。

 一方、清作は医術開業試験受験のため春次を追い掛けるように、同じ年の9月に上京することになる。
 春次は東京高等工業学校を卒業すると、明治32年、日本精製糖株式会社に入社、同36年、アメリカ・ルイジアナ大学砂糖科に入学、同38年に卒業、マスター・オブ・サイエンスの称号を授与される。その後、フィラデルフィア市のスプレックス製糖会社に入社するが1年で退社、アメリカやヨーロッパの製糖事情を視察して1年後に日本に戻り、大阪の日本製糖株式会社と合併した大日本製糖株式会社に復帰した。

 英世は春次より少し早い明治34年、単独で渡米、ペンシルベニア大学の助手となり、蛇毒の研究を始める。同36年、研究の成果が認められ、デンマークに留学、翌年に帰米後は創設間もないロックフェラー医学研究所の研究助手になった。同40年にはペンシルベニア大学から春次と同じマスター・オブ・サイエンスの称号を得る。

 この間、アメリカでの交友は短期間であったが、お互いのアパートなどに行き来して親交を温めた。その後、春次が台湾の斗六製糖の専務の時、大正4年秋、東山温泉の新瀧で、ちょうど帰省した英世と会い、久しぶりで昔話を懐かしみ大いに飲み明かした。

 「その時の野口さんの勢いは大変なものでした。持ち合わせの勲章なども見ましたが、旧友の1人として、私もこの時ほどうれしかったことはありません」と春次は述べている。

 県立工業学校に浄財寄付

 春次は日本の産業発展に貢献できる人材をという要望の中、福島県立工業学校へ、機械技術者を養成する学科ができるのであればということで、30万円を寄付、その金で機械科が設置された。春次は南興事業地域だけでも十九の国民学校と南洋家政女学校の建設に協力して、子弟教育に力を注いでいる。

 英世も子弟教育へ大きな関心を向け、猪苗代高等小学校の恩師小林栄が設立した「私立猪苗代日新館」に物心両面から援助した。

 道は違っても共通のものを持ち合わせていた2人であった。春次は英世のことを次のように述べている。
 「会津の小天地よりこの偉人を出したことは、われわれの誇りとするところで、外交官にあらずして日米の国交にこのように功績を挙げた人はいない。今日、時々あの人のことを思い出しては全く感無量です」

 2人の像が海外に建立されたが、2人とも建立地の人たちに愛されて、第二次世界大戦を潜くぐり抜けて残された。春次は昭和29年11月、東京で亡くなった。78歳であった。
 


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