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【松本 順次郎】 小学校教員に清作採用【〈10/9〉
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松本順次郎(後列)と家族たち。右端は清作と机を並べて勉強した繁 |
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【2】 |
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清作は学校から一目散に家に駆け込んだ。「母ちゃん、俺おれ、小学校の先生に採用されたぞ」。母のシカは、何があったのか理解できなかった。「清作、なじょした。オメエが先生になったつうのは、どういうことなんだ」。清作が学校で言われたことを説明して、母はようやく理解できた。
清作が学んでいた三ツ和小学校日誌の明治21年4月19日の項に「温習生 野口清作 本校生長せいちょう申付候事 但ただし月手当てトシテ1ケ月25銭支払候事」とある。つまり、有給の臨時教員として採用になったということであった。清作が11歳の時である。
この辞令を出したのが、当時校長の松本順次郎であった。清作の才能を見込んでのことで、生徒の中から有給の教員を出したのは、後にも先にもこの時だけだという。当時、小学校には各等級毎ごとに級長を、その上に生長というものを置いていたが、村の有力者の子どもがなることが多く、村一番の貧乏の子であった清作がなったことは、村人たちからも驚かれた。
母は「清作が先生になったんでは、イッチョラの着物ではみっともねぇべ」ということになり、村の子どもでは誰も着たことのない、「洋服」を新調して学校に送り出した。これを機会に清作は学校の先生を目指して勉強に励んだ。
この英断を下した順次郎は、嘉永3(1850)年、長崎県西彼杵郡上長崎村に生まれた。上長崎村は現在の長崎市である。父は実業家で、五島列島で炭鉱開発などを手掛けた後、長崎市の長浜町で菓子業を営んだ。
明治20年に本県へ赴任
順次郎の学問への志は高く、24歳になってから大阪に出て明治8年、国立の大阪師範学校を卒業すると、長崎県で小学校の教員となる。その後、東京の羽田小学校から栃木県の小学校を歴任して、福島県には明治20年6月に耶麻郡四奈川尋常小学校(現在の喜多方市塩川町の堂島小学校)の校長となり、同年10月に清作が在学していた三ツ和尋常小学校の校長に赴任してきた。
三ツ和小学校は当初、明治5年の学制発布の翌年5月に三城潟の肝煎きもいり二瓶橘吾宅の一部を借り、三城潟小学校として開校した。
明治8年8月に三城潟、新在家、50軒が合併して三ツ和村となり、生徒数が増えたため、同年10月、旧会津藩の米蔵を改造して校舎を移した。この時の校名は湖潟小学校で、三ツ和小学校と改めたのは、明治10年1月のことであった。
因ちなみに、翁島村が誕生したのは明治22年4月1日、長田、三ツ和、磐根、翁沢の4村が合併された時である。合併に伴って明治26年、校舎は現在の翁島小学校の南側に移転新築され、校名も翁島小学校と改称された。英世の弟・清三が通ったのは、この学校になる。明治32年には高等科が設置され、翁島尋常高等小学校となり、英世が大正4年、15年ぶりに帰郷した時、講演したのはこの校舎である。
自宅に呼び直接指導も
順次郎は小学校に隣接する野口家の菩提寺ぼだいじ・長照寺に下宿していた。清作の向学心に関心を持った順次郎は、自宅に清作を呼び、息子の繁とともに机に向かわせていたという。
小学校に入学した清作は当初から成績は良かったが、順次郎の指導によってその才能を伸ばし、郡内の試験ではいつも1番の成績を取っていた。順次郎は当時珍しく英語を習得していたので、清作に教えていた。また、長照寺住職楠是本くすのきぜほんから英語や漢文を、駐在所の宍戸豊之助からは国語や漢文を習っていた。
順次郎は、明治35年、栃木県茂木町の小貫おぬき小学校の卒業式の日急死した。54歳であった。
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◆ひとこと◆
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松本順次郎の孫で栃木県国分寺町在住の松本義さん(89)
祖父に直接会ったことはないが、父から厳格な人だったと聞いている。英世については父から「人一倍、一生懸命勉強したと(祖父が)話していた」と聞いた。祖父、父、私と3代続けて校長を務めたが、祖父と英世のかかわりを聞き光栄に思っている。 |
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