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【トーバル・マッセン(2)】 手紙のやり取り終生続く  〈12/18〉
 
ニューヨークで撮影された英世とマッセン
【19】
 
 トーバル・マッセンはデンマーク国立血清研究所(SSI)が設立される前に、ロックフェラー医学研究所やドイツでの研究所設立に当たって誘いがあったにもかかわらず、祖国での研究所を選んだのには訳があった。

妹がジフテリアの犠牲

 医学部に進んだマッセンは、大学の卒業試験を前にしてジフテリアに感染した。当時、ヨーロッパではジフテリアが猛威を振るっており、マッセンは大事に至ることなく治癒したが、同じ時期に感染した妹がその犠牲となった。マッセンはこのことを契機に微生物を研究し、自国でのジフテリアの撲滅に一生をささげる決心をしたのだという。

 マッセンは大学を卒業すると、サラモンセンが主宰する医学微生物研究所の血清治療部門に所属、ジフテリア抗血清の製造に携わるとともにジフテリアの研究を行った。その後、パリのパスツール研究所やエールリヒの王立プロシア血清研究所、スウェーデンのウプサラ大学などで研究に携わり、若いながらもヨーロッパ各国では名前が知られていた。

 SSIでの野口英世は、若い研究主任マッセン、真新しい建物、少人数の研究員たちという研究環境を大変に気に入っていた。

 英世はSSIでの研究を1年で終えてニューヨークに戻るが、その後、マッセンとの手紙でのやり取りを終生行っている。その手紙の一部が、マッセンの子息であるステン・マッセン氏が平成2年、デンマークのフレデリック国王のイングリッド妃の主治医として来日した時に、28通の手紙を野口英世記念会に寄贈された。手紙は英世がニューヨークに戻った時から、亡くなる前年のアフリカに赴いた船上の時まで続いている。

 手紙の内容は、研究に関するものが多いが、英世が日本人研究者をSSIに紹介したこと、マッセンの家族のことなど、公私のことにわたっている。特に、英世が大正二年に欧州各国の講演旅行中には、滞在先から頻繁に書いている。これらの手紙からは、英世がマッセンを師として大変に尊敬していたことが分かる。

 手紙の一部を紹介してみる。原文は英語である。

 「私のささやかな結婚祝いの品に対して、親切なお言葉をいただき、ありがとうございました。奥さまに時折使っていただけると聞いて喜んでおります。奥さまに心からよろしくお伝えください」(明治39年4月5日)

 「私は先生のもとで、先生の助手に交じって研究していた楽しい日々のことを、何い時つも想おもい出します。アマー橋や兵舎をどんなに楽しく歩き回ったか。それにあの美しい薔ば薇ら苑えん! 何回もあの冷凍室へ駆け降りていったり、馬小屋へ走っていったりした時の気持ちを言葉に言い表すことはできません」(大正元年5月14日)

 「お聞きになって喜んでいただけると思いますが、先生の外国人弟子第1号が、エクアドル陸軍の軍医少佐および陸軍大佐に任じられ、軍刀を授かりました。帰国したら軍服姿で合衆国軍医にこのことを知らせてやります」(大正7年10月26日、エクアドル国から)

 「私の目的はウイルスと呼ばれているものを数株手に入れ、ニューヨークに持ち帰ってさらに詳細な検討を加えることにあります」(昭和2年10月30日、アフリカ行きの船上で)

 手紙は同会が発行している『野口英世書簡集Ⅲ』に収録され、発売されている。

大正13年に英世と再会

 マッセンは大正13年にロックフェラー医学研究所を訪問し、英世と再会している。マッセンは31年にわたりSSIの所長を務め、国際連盟の公衆衛生部長も歴任。昭和32年、87歳で亡くなった。
 


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