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【サイモン・フレキスナー(1)】 窮状考慮し親身に世話 〈12/4〉
 

ペンシルベニア大学助手時代の英世(前列左端)とフレキスナー(前列左から2人目)
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 野口英世とサイモン(シモン)・フレキスナーとの運命的な出会いは、明治32年4月、英世が伝染病研究所長北里柴三郎の名代として、東京市内の案内に当たった時であった。英世はフレキスナーに「細菌学の勉強のため、2、3年アメリカに行きたいと思っている」と自らの希望を述べた。

 フレキスナーは「北里柴三郎博士が渡米に賛成し推薦をしてくれるなら、大学で何らかの身分が与えられるようにしましょう」と答えたのであった。

 英世は、このフレキスナーの言葉に渡米の望みを懸けた。英世は、追い掛けるように、マニラに行ったフレキスナーに手紙を書いた。

 「北里博士に相談しましたところ、フレキスナー教授が推挙の労をお取りくださるなら、早く外国に行く方が良いとの忠告です。最も重要な問題、すなわち生計に関しましては、目下のところ1人でやっております。アメリカで私に値する身分を得させていただきたくお願い申し上げます。どのような厳しい仕事であろうと、できないと言って目を覆うことはいたしません」

 この文面から英世の必死の思いが伝わってくる。

 英世は明治33年12月5日、横浜からアメリカ行きの船上の人となった。12月29日、英世は目的地であるフィラデルフィアに到着、その足でペンシルベニア大学のフレキスナーのもとを訪ねた。

下宿斡旋し仕事も探す

 英世の突然の訪問に戸惑ったフレキスナーであったが、さらに驚いたのは、英世が研究生として当然必要であった生活費すらないことであった。フレキスナーは、大学では仕事がないこと、英世の研究を援助する資金が自分にはないことをはっきりと明言した。それでもフレキスナーは、遠い日本から来て、宿舎すらない英世の窮状を考慮し、下宿先を斡旋あっせんしてくれた。

 知らない町に来て、頼りにするのはフレキスナー1人。そんな英世のもとに1日おいた大おお晦みそ日か、フレキスナーが訪ねてきた。

 「野口君、動物の毒液に関する研究をやってみるかね」

 英世と会ってからのフレキスナーは、何とか英世に仕事を与えようと東奔西走し、ようやく見つけたものであった。フレキスナーにとって、英世が貧しい中でも研究しようと渡米してきたことが、わがことのように思えて仕方なかった。英世はフレキスナーの配慮に感謝するとともに、この研究を始められることを喜んだ。フレキスナーは英世に対して、年明けの4日から大学に来るように言った。

 英世は血脇守之助への手紙に「フレキスナー教授の親切には驚き入りいたしました」と認したためている。

移住の苦労が英世を理解

 野口英世の伝記の著者イザベラ・R・プレセットは、フレキスナーについて次のように書いている。

 「フレキスナーは、ドイツから移住してきたユダヤ人一家の子だくさんの一人であって、彼の教育と地位は、自身の才能と勤勉によって得たものであった。彼は、1889年にほとんど済生学舎と同程度のケンタッキー州ルイビルにある大学を出ていた。それでも彼は、ジョンズ・ホプキンズ大学に大学院生として受け入れられ、当時のアメリカ医学界で最も有力であった医学部長ウィリアム・ウェルチ博士に目をかけられるようになる。フレキスナーは、ペンシルベニア大学医学部の正規のスタッフに任命された最初のユダヤ人であった。だから、野口がしようとしていることの意味は、よく分かっていた」

 フレキスナーが、英世の立場を理解できたアメリカ人であったことが幸いした。フレキスナーは1863年生まれで、英世より13歳年上であった。
 


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