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【血脇守之助(3)】 渡航費用を借金で捻出 〈11/20〉
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ニューヨーク歯科医師会の血脇守之助歓迎会。壇上に守之助や英世が座っている
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【12】 |
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野口英世は渡米の費用が調達できて、いよいよ出発することになったので、今まで世話になった横浜海港検疫所の友人たちなどと別れを告げるため横浜に向かった。
英世は横浜随一の料亭「神風楼しんぷうろう(外国人相手の料亭なので外壁にNO9の数字が書かれていたためナンバーナインとも呼ばれていた)」での送別会を計画、数十人に案内状が回された。意気盛んな青年たちの宴会は盛り上がり、英世は翌日に勘定を見てビックリ仰天、予想外の金額になっていた。
英世は手持ちの旅費に手をつけなければ支払えなかった。消沈して戻った英世に対して血脇守之助は責めることもできず、生涯で初めて高利貸から借金をして不足した英世の渡航費用を捻出ねんしゅつした。
英世の出航に当たり、守之助が懇意にしていた若松出身の外交官・小松緑みどりが英世と同じ船でアメリカ公使館の書記官として赴任することになり、到着するまで英世の面倒を見てもらうよう小松に頼んだ。
守之助に宛あてた英世の手紙に「小松氏のご厚意にて非常の便宜を得て、上等船客と同一なる待遇を受け、何の不自由せずに経過いたしました。三等船客は上陸できないのですが、途中ホノルルで小松氏の従者ということで全市を巡覧いたしました。途中ワシントンまで小松氏同行しました」と報告をしている。
英世からの手紙は数百通
アメリカ・フィラデルフィアに到着して、ペンシルベニア大学教授フレキスナーの弟子になり、研究を始めた英世は、守之助にその都度手紙を出して報告している。英世から守之助に出された手紙は200通とも300通ともいわれていて、その一部は残されているが、大正12年9月に起きた関東大震災でそのほとんどを焼失してしまったようだ。東京歯科医学専門学校(高山歯科医学院)もほとんど灰燼かいじんと化し、そのことを聞いた英世は、「高雅学風千古こうががくふうせんこに徹す」と激励の書を認したためた。
守之助は、英世が日本の学位を取ることを、郷里の人たちが望んでいることを知り、京都帝国大学の医学博士や東京帝国大学の理学博士の取得に尽力した。
大正4年、英世は、帝国学士院恩賜賞を受賞するが、英世はこの賞金を、今まで世話になった守之助に預けることにした。守之助は1000円という大金になるので、猪苗代の小林栄と相談、英世の母シカや野口家のために田畑を購入したり、そのほか地元の学校や老人会などに寄付することにした。
訪米の際最大のもてなし
大正11年、守之助は東京歯科医学専門学校の改善や世界の歯科医学の視察を目的に欧米諸国に旅立ち、その途中、英世のいるニューヨークに立ち寄った。恩師の来訪に当たって英世は、最大のもてなしをしようと、ニューヨークに滞在していた1カ月余り、守之助に付きっきりで、視察や見学、招待や歓迎会を取り仕切った。ロックフェラー医学研究所長に就いていたフレキスナーは、英世に「血脇を歓迎で攻め殺すな」と言ったという。英世は懇意にしていたヒューズ国務長官の斡旋あっせんを得て、ホワイトハウスにハーディング大統領を表敬訪問、最大の孝養を尽くした。
昭和3年、英世がアフリカで亡くなると、守之助は誰よりも悲しみ、学校挙げて追悼会を開いた。英世の業績を顕彰しようと野口英世記念会の設立にも尽力した。守之助は、英世から遅れること19年後の昭和22年2月24日、78歳の生涯を閉じた。
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◇ひとこと◇
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東京歯科大学大学院研究科長の奥田克爾さん(63)
人間として最も大切なのは人を育てること。血脇先生は「歯科医である前に人間になれ」と説き、6歳しか違わない野口博士を育てることでそれを実践された。血脇イズムは慶応大などで学ばれたものであり、研究者で教育者でもある私の根幹をも成している。
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