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【血脇守之助(2)】 研究所入所を働きかけ  〈11/16〉
 
大正4年、血脇邸を訪れ、家族とともに記念撮影する英世(前列左から2人目)。後列が守之助、前列左から5人目がソデ夫人
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 血脇守之助の略歴を紹介しておこう。守之助は、明治3年に我孫子宿(現千葉県我孫子市)で代々旅籠はたごを営む加藤家の長男として生まれた。

 若松で師弟の絆始まる

 明治の新しい時代になり、向学心に燃えていた守之助は東京英学校に入学、明治英学校、共立学校、明治学院を経て慶応義塾を卒業し、東京新報社に入社。その間に訳あって姻戚いんせきに当たる血脇家を継ぐことになる。その後、新潟米北教校の英語教員となるが、明治26年、23歳の時に一転して高山歯科医学院に入学、歯科医になる。明治28年、野口清作と出会う前年に医学院の講師兼幹事となった。そして翌年に守之助は若松で清作と出会い、師弟の絆きずなが始まった。

 上京してからの清作は守之助の世話になりながら、医師試験に合格すると、守之助の計らいで高山歯科医学院の講師として病理学、薬物学などを教えた。清作はその時の様子を後になって「あらゆる出来事の中で、学院の小使いから一躍講師となって、生徒たちの度肝を抜いたのが一番痛快であった」と述べている。

 清作は医学院での講師の職を得たが、さらに臨床研究をしたいと考え、名を馳せている順天堂医院入所を希望し、そのことを守之助にお願いした。

 守之助は医事雑誌社の会合で懇意となっていた順天堂医院の医師菅野徹三に清作の順天堂入所を依頼、清作は明治30年11月に同院発行の『順天堂医事研究会雑誌』の編集部員として採用されることになった。

 清作の医学研究への意欲はさらに強いものであり、当時、ドイツへ留学、ロベルト・コッホに師事して帰国、ペスト病原菌を発見したことで名声を得ていた北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所への入所を希望した。

 清作は再び、守之助にこのことを相談したところ、守之助は柴三郎と懇意にしている日本医事週報社の川上元次郎に頼むことになり、さらに順天堂医院の院長佐藤進が柴三郎と懇意にしていることを知り、菅野を通じ推薦書をもらい入所の働き掛けをした。

 研究所の所員のほとんどは帝大出身者で占められており、入所は難しいと思われていたが、間もなく入所の通知が届いた。

 内藤家との縁談勧める

 研究所に入った清作は英世に改名し、細菌学への道を歩み始めたのであるが、さらに外国留学への思いを募らせていた。明治33年の秋、守之助は英世を伴って、箱根塔ノ沢の温泉旅館で数日を過ごした。この宿に東京・麻布に住む、内藤文雄とその家族が逗留とうりゅうしていた。守之助はいつしか内藤と懇意になり、英世の医学者として有望なことや、渡米のことなどを話すことになった。

 すると、東京に帰った守之助のところに内藤夫人が訪れ、自分の姪めいを英世の妻にしたい旨を申し入れした。守之助は英世がこのような話を受け入れることはないと考え、当初は断っていた。ところが、再三再四にわたり守之助のところを訪れては、何度も同じ話をするばかりではなく、英世の渡航費用も出すという話にまで発展した。

 内藤夫人が英世のもとにも訪れたことを知った守之助は、渡航費用のことにまで及んだので、この縁談を英世に強く勧めたのである。英世も守之助が勧める縁談だし、渡航費用を出してくれるという話でもあるので、この話を承諾した。
◇ひとこと◇

  野口英世記念会長で東京歯科大名誉教授の高添一郎さん(78) 

 
血脇先生は大変懐の深い大人物で、心遣いの細やかな方だった。小林栄先生と並ぶ野口博士の最大の恩人。東京歯科大にとっても、大学そのものといっていいほど大きな存在だ。記念会長として野口博士と血脇先生の功績を後世に伝えていきたい。
 
 


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