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【血脇守之助(1)】 小さな縁から学費援助  〈11/9〉
 
高山歯科医学院の人たちと。前列中央が血脇守之助、後列右から2人目が清作
【10】
 
 今日9日は、野口英世博士の130回目の誕生日に当たる。

     ◇

 明治29年の夏、高山歯科医学院の教授をしていた血脇守之助は、学校の夏休みを利用して歯の治療診察のため若松に滞在した。当時出された歯科診療の広告チラシには次のように書かれている。

 「会津五郡の地いまだ一人の歯科医なく 歯科患者の難儀一方ひとかたならざるより 小生等の友人東京有名の歯科医血脇守之助氏を招き 7月21日より9月10日まで若松大町笹屋に於おいて治療の儀を依頼し 其その旨夫々それぞれ広告致し候処ところ この頃ごろ治療のみにて入歯はなされぬものにやナゾト問合せらるるもの数多く之有これあり候えども 入歯は同氏の最も得意とする処なれば この際猶予なく治療を乞はるべし

 明治29年8月1日
   渡邊 鼎
   斎藤 幸元
   宇南山 誠一郎」

 渡部鼎が仲介して守之助を招いたが、2人の接点には、アメリカのインディアナポリスで学んだドクトル田原利がいた。田原は帰国後東京で開業するが、その後、新潟県の三条病院長になる。守之助は田原より一足先に三条にあった新潟米北教校の英語教員となって下宿先が三条病院となったため、そこで知り合うことになる。

 若松に滞在している時、守之助は鼎のところに出入りしていたが、その時に容姿はみすぼらしいが、医学書を原書で読んでいる野口清作との出会いがあった。守之助は鼎に「あの少年は手が不自由なようだけれども、見込みがありそうだね」と言うと、鼎もかわいがっている弟子のことを褒められたので、守之助に清作の上京後のことを特に頼んだようだ。守之助は清作への印象を強くして東京に戻った。

 人と人との絆きずなはまるで、赤い糸で結ばれているようで、ほんの小さな縁が、生涯の恩人となる守之助との出会いであった。

 医学院に住み込ませる

 清作はその年の9月に、鼎の許可をもらい、医師試験受験のため上京した。清作は、東京での滞在費は鼎からの仕送りを当てにしていたが、鼎の送金が途絶えがちになったりしたので、小林栄らからの援助などに頼ったりした。しかし、清作の財布の中はたちまち底をついてしまった。下宿先を何度か変えて何とか生活をつないだが、いよいよ生活の見通しがつかなくなり、11月には守之助のいる高山歯科医学院に転がり込むことになる。清作は、守之助の計らいで医学院の門番兼小使いとして住み込みができることになった。

 清作は、10月に行われた前期試験には直ちに合格したものの、後期試験に臨むには、さらにさまざまな勉強をしなければならず、そのためには唯一門戸を開いている済生学舎への入学を必要とし、守之助に相談した。

 済生学舎は朝早くから夜遅くまで講義を行っており、聴講するには、近くに下宿する必要があったため、学費と合わせて15円ほど必要であったという。守之助はこの直前、清作のドイツ語講習のため、高山紀斎校長に給料の増額を求めたばかりなので無理を承知していた。高山院長はかねがね学院付属の病院経営が思わしくないことを述べていたので、守之助は病院経営を任せてもらうことで、清作の学費を工面したのである。

 無償で手の再手術

 守之助の清作に対する肩入れはその後も尋常なものではなかった。触診などがある後期試験に向けて、東京帝国大学の近藤次繁助教授に頼み込んで、研究用の患者として無償で手の再手術を受けた。さらに近藤から触診の教授を受け、そのおかげで清作は翌年10月に実施された後期試験に1回で合格できた。
◇ひとこと◇

 守之助の孫で埼玉県本庄市在住の血脇正子さん(65) 

 5歳の時に祖父が亡くなったので晩年の姿しか記憶にないが、父(守之助の長男・日出男氏)には「(野口博士を)世に出すために大変な苦労をした。男が男にほれるということは、身代限り(全財産を費やしてしまうこと)だ」とよく話していたと聞いている。野口博士の名は私にとって懐かしい響きがある。あらためて注目されていることには、ゆかりの者として晴れがましい思いがする。 

 


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