【続・証言あの時】白河市長・鈴木和夫氏 小峰城は復興の象徴

2022/03/07 09:36

鈴木和夫白河市長

 東日本大震災の発生直後、白河市長の鈴木和夫は、市役所北側の空に大きな土煙が舞い上がるのを目撃した。瞬間的に「小峰城が崩れた」と考えた。実際には、同じ方角で発生した葉ノ木平地区の大規模な土砂災害の土煙だったが、小峰城の被害を想起したのには理由があった。

 小峰城は長く壮麗な石垣が特徴で、戊辰戦争の舞台ともなった白河のシンボルだ。2007年に市長となった鈴木は、就任間もなく現地を視察した。自慢の石垣だったが、広がった木の根の影響もあり、所々で石積みが外側に膨らんでいた。同行した地元の石材業者は「ある程度の地震が来れば崩れてもおかしくない」と指摘した。

 「何かあっては困る。そもそも国の史跡になっていないのもおかしい」と考えた鈴木は、担当課に国の史跡指定を受けるよう指示した。史跡は開発に規制を受けることもあり、それまで指定を目指す動きは鈍かった。だが、担当課は水面下で準備を進めており、鈴木のゴーサインで即座に国と協議に入った。「小峰城跡」として史跡指定を受けたのは、震災の半年余り前の10年8月だった。

 震災で石垣の10カ所が崩落した。総延長は160メートル、面積は1500平方メートルに及び震災による最大級の文化財被害となった。鈴木は、当時の惨状を「自らの体を傷つけられたようだった」と語る。震災前の国史跡指定が幸いし、文化庁の補助を受けた修復工事が始まる。

 ただ、その道のりは平たんではなかった。石垣が建造された江戸時代の伝統工法を採用し、崩れ落ちた石を使って再建する必要があった。石の一つ一つに番号をつけて管理し、城を撮影した写真などを手掛かりにパズルのように組み上げていく作業が進められた。

 鈴木は「通常ならばとても見ることができない工事だ。市民にオープンにした方がよい」と決断する。現場公開のほか、石垣と地盤の間に詰める「栗石」を入れてもらう企画なども展開した。市が設けた「小峰城城郭復元基金」にも、広く浄財が寄せられた。

 作業が進んでいた16年4月、熊本地震が発生する。名城と知られる熊本城も被災し、建造物や石垣が大きく損傷した。熊本市は石垣再生のノウハウを持つ白河市に支援を求めた。鈴木は、職員を派遣するなどして熊本城の再建を応援した。

 鈴木は小峰城修復を「復旧・復興という言葉があるが、私は震災復旧の最後、そして復興につながるシンボルに位置付けていた。心の面でも大きな意味があった」と振り返る。19年4月、市民の思いを確かな土台とし、城の石垣は完全復活を遂げた。(敬称略)

          ◇

 白河市 東日本大震災で最大震度6強を観測した。葉ノ木平地区で延長約130メートル、幅約120メートルの土砂崩れが発生し、震災による内陸部での人的被害では県内最多となる13人が犠牲になった。このほか萱根地区と大信隈戸地区で各1人が亡くなった。国指定史跡「小峰城跡」では石垣が崩壊し、震災で最大級の文化財被害となった。文化庁の支援や全国の技術者による応援もあり、2019年4月に崩落した10カ所と変形した5カ所の修復が完了した。

 【鈴木和夫白河市長インタビュー】

 鈴木氏に、葉ノ木平地区の土砂崩れや小峰城の石垣崩落への対応などについて聞いた。

 葉ノ木平土砂崩れ救助 自衛隊、消防団全力尽くした

 ―東日本大震災が発生した2011(平成23)年3月はどこにいたのか。
 「開会中だった市議会の議場にいた。地震で審議が中止になったので、災害対策本部をつくろうと議場の外に出た。北側の廊下を通ると、『バーン』と土煙が上がるのが見えた」

 「私は『小峰城がやられたな』と思った。前に、地震があれば石垣が崩れてもおかしくないと聞いていたからだ。あの土煙は(小峰城と)方角的に同じだった葉ノ木平地区の土砂崩れのものだった」

 ―災害対策本部はどこに設置したのか。
 「市役所1階ロビーに設置した。職員に『いったん家に帰って様子を見て、もう一回集まってくれ』と指示した。道路や水道、家屋などの被災状況を情報収集するためだった。大きな部屋がなかったし、国土交通省など外部の人も入りやすいと考え、ロビーにした」

 ―市の記録によると、早い段階で葉ノ木平地区の土砂崩れについて自衛隊の派遣を要請している。
 「山が崩れ、膨大な土砂で埋め尽くされていると報告が入った。消防や警察では対応できないと考え、要請したのを覚えている。重機を持っている建設業者や消防団にも一斉に連絡した。水道などのインフラの状況を確認した後、現場に向かった」

 ―3月11日のうちに現場に入ったのか。
 「夕方ごろだった。一面が土砂で、行方不明者の捜索には相当時間がかかるなという不安が先に立った。(行方不明者の)親族の方からの『早く助け出してくれ』という悲鳴に近い声を背中に受けながら、現場を激励した。自衛隊も消防団も全力を尽くした」

 ―作業が進むにつれ、土砂の中から行方不明者の遺体が見つかっていった。
 「発見されるたびに『本当にかわいそうな思いをしたな』と。何回も現場に足を運んだ。時には『何やってんだ、市長。遅い』と叱責(しっせき)されたこともあった。土砂の中に行方不明者がいるので、作業はゆっくりにしかできない。そこが遅いと見えたのだと思う」

 ―県内の地震被害による犠牲者数が市町村で最多となった。
 「葉ノ木平地区で13人、大信地区で1人、萱根地区で1人が亡くなった」

 ―葉ノ木平地区の再生にどう取り組んだのか。
 「13人の尊い命が失われたことを記憶していかなければならないと考え、復旧後に記念公園を整備した。災害に対応するための道路も整えた」

 小峰城の国史跡指定を指示。方向転換が復元に奏功

 ―震災直後に土煙を見て「小峰城がやられたと感じた」と聞いたが、その理由を詳しく。
 「07年に市長に就任して何カ月か経過した時、地元の石材店と石垣を回った。すると専門家の目にも私の目にも石垣がはらんでいる(外部に膨らんでいる)のが見えた。経年劣化や木の根が(石垣を)押しているのが原因だった。石材店の人が『ちょっとした地震があれば崩れる可能性があるんじゃないですか』と言ったのが印象的だった」

 「何かあったときにということもあり、あれだけの石垣を持った城は全国にないという話も聞いていたので、文化財課の担当者に『国の史跡指定を受けるように』と指示した」

 「文化財課は以前から国指定史跡にしたかったらしく、必要なものを整えていた。それですぐに文化庁との協議が始まった。震災前の10年8月に国史跡の指定を受けるが、(担当課の)準備がなかったらもっと時間がかかっていたと思う」

 ―市はそれまで指定を目指していなかったのか。
 「都市計画法上の公園の方が、いろいろなものを造りやすいというのもあったんだと思う。震災で壊れた石垣は文化庁の支援を受けて伝統工法で復元するが、あの時、文化財指定を受けるべきだと方向転換したことが功を奏した」

 ―市民にとって小峰城はどのような存在か。
 「シンボルだ。朝夕見ていた城の石垣が崩れたというのは、自分の体の一部が傷つけられたような気持ちだ。白河出身者でつくる東京白河会の幹部の方は(石垣が崩れた)写真を見た時、半ば泣いていた」

 ―石垣を再建するのは一大事業だ。他の地域も被災していた中で、市が再建を打ち出した時に反対などはなかったのか。
 「全くない。国との協議もすんなりいった。再建は江戸時代の伝統工法でやることになった。(地盤と石垣の間に栗石と呼ばれる)玉石を詰め込み、その後に石垣をはめていく。崩れた石を使うので全部に番号を振った。(石が崩落で損傷して)使えなくなった部分は新しく切って造るしかなかった」

 ―どのように再建に取り組んだのか。
 「復元工事の状況を市民に公開した。『城の石垣はこうやって出来上がっていく』というのを見ることができる現場は、普通ない。玉石に名前を書いて入れてもらうこともした。市民の関心は高く、復元基金も設けた」

 ―16年4月の熊本地震で被災した熊本城の再建に、小峰城のノウハウが役立てられたと聞いている。
 「熊本城も石垣などが壊れたが、(石垣を再建するとき)結局どこに聞いていいのか分からない。どこか最近で城が壊れた事例がないかとなり、熊本市役所の職員が『いろんなことを勉強させて』と電話してきた。そこでやりとりした。小峰城が参考になったんだよ」

 ―小峰城の再建はどのような意味を持ったのか。
 「復旧・復興と言っていたが、復旧の最後、そして復興へのシンボルにもなると位置付けていた。(市民の)精神的な心のシンボルという意味でも大きかった」

 賠償が対象外。なぜ分断するのかと憤る

 ―東京電力福島第1原発事故の影響に、どのように対処したのか。
 「原発事故後に白河市に入っていた徳島大の先生と保健師が連携して(放射線に)不安を感じている子育て中のお母さんを対象に少人数での説明会を開いた。除染は合併前の旧市村単位に1カ所ずつ仮置き場を設けて進めた」

 ―相当の苦労があったはずだが、文部科学省の原子力損害賠償紛争審査会が11年12月に示した自主避難に係る賠償の指針(避難の有無を問わず妊婦と18歳以下の子どもに1人40万円、そのほかの住民に1人8万円)は県北、県中地区の全域と避難指示区域以外の浜通りが対象で、県南地区と会津、南会津地区は外れた。
 「なぜ分断するのかと憤った。賠償の実現へ(24年1月に)県南と会津の市町村で白河地方・会津地方原子力損害賠償対策本部をつくった。当時、県の原子力損害対策担当理事だった鈴木正晃氏(現副知事)に頼まれ、本部長に就いた」

 ―東電にも交渉に行ったと思うが、当時の東電の反応はどうだったか。
 「芳しくなかった。審査会で決めたわけだから、彼らも説明できない。分からないことを言って逃げ回っていた。ただ、当時の賠償担当だった広瀬直己氏(後の東電社長)の目からは『何とか応えよう』という気持ちが出ていた気がする」

 ―最終的に県や東電などが動き、県北地区などのおおむね半額となる金額で落ち着くことになるが、その経緯はどのようなものだったか。
 「(賠償などを考えていた)経済産業省資源エネルギー庁も(県南地区を)外すという理屈はつかなかったと思う。県も相当力を入れてくれたことは事実で、鈴木氏が水面下で(交渉を)やっていたと思う。その結果、エネ庁だったか東電だったか忘れたが、『半額でどうか』という提案を持ってきた」

 「(提案があったのは)12年3月で、年度末が迫っていた。鈴木氏から『不本意と思うが、ここで決めないと前には進めません』と言われた。提案に『今後、何か賠償をするようなときには県南地区を対象にする』という条件もあったので『分かった。まとめよう』と答えた。他の首長の賛同も得て、対策本部で受け入れを決めた」

 ―震災から11年となる。災害対応を指揮した首長として伝えたいことは何か。
 「日本は災害を避けられない国であり、備えが必要だ。職員には『震災の記録は残されているが、記録よりも経験した人に聞いた方が早いぞ』と言っている。大きな災害があったとき、それを乗り越え、新しい光を見いだしてきたのが日本人だということを、子どもたちも忘れないでほしい」

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