【続・証言あの時】元公明党幹事長・井上義久氏(上) 震災5日「復興庁の礎」

2022/02/24 09:13

いのうえ・よしひさ 富山県出身。東北大工学部卒。公明新聞記者を経て1990年に衆院議員に初当選。9期。比例東北の議員として仙台市を拠点に活動し、2009年に党幹事長に就任した。11年3月に東日本大震災が発生すると、党震災対策本部長を兼任した。12年12月の自公連立政権発足後の13年2月には対策本部を「震災復興加速化本部」に改称し、本部長に就任した。21年の政界引退まで復興政策の実現に尽力した。現在は党常任顧問を務める。74歳。

 「一元的に権限を与えた特命担当相も必要ではないか」。2011(平成23)年3月16日、国会内で開かれた各党・政府震災対策合同会議の初会合で、公明党幹事長の井上義久はこう訴えた。東日本大震災発生から5日後。井上は後の復興庁設置につながるような提言をすでにしていた。井上の原動力は何だったのか。

 11年3月11日、井上は東京都内の衆院議員会館にいた。激しい揺れに大災害を予感し、党の対策本部設置を指示した。本部長として情報収集などに当たったが、翌12日に「やはり現地に行かなければ」と決意して車に飛び乗った。交通網は寸断されており、活動拠点の仙台市に到着したのは13日朝。東京から約16時間かかった。

 井上はその足で沿岸部に向かい、絶句する。住宅の上に乗り上げた漁船、散乱した松の大木。津波の猛威を目の当たりにした。「家族と連絡が取れない」「もう備蓄がない。重油を何とかしてほしい」。数日にわたり海沿いの市町村の避難所や役場を巡る中で、悲痛な叫びが寄せられた。

 災害対策は、市町村が住民の救助などを担い、広域自治体の県が支援する枠組みになっている。だが、役場が流されるなどして市町村は機能を失い、被害は県をまたいで広がっていた。「国が司令塔をつくり、あらゆる資源を動員しないと対応しきれない」。井上はその思いを胸に東京に戻り、政府との会議で発言したのだった。

 ところが、井上の提言に対する政府の反応は「何か現実感がないというか、ピンと来てないような感じだった」という。「会議に出席した各党の幹事長でも、現場を見ていたのは私ぐらいではないか。政府は東京電力福島第1原発事故の対応もあり、全体像が見えていなかったのでは」と振り返る。

 震災当時、民主党が政権を担い、公明党は野党だった。しかし、国会では衆参のねじれが発生しており、政府は野党の意見を受け入れなければ法案成立を見通せない状況でもあった。

 井上はその後、政府への提言や、友党の自民党と連携した震災関連の立法に汗を流す。東日本大震災復興基本法などの数々の重要法案が、与野党協議の末に議員立法で成立した。「復興庁設置法などでは、こちらがまず案をつくり政府に示したこともあった」と語る。

 井上によると、本県の復興を定めた福島復興再生特別措置法の成立過程では、当時副知事だった内堀雅雄と公明党県本部代表の甚野源次郎がパイプ役となり、公明党の修正案に県側の意見が盛り込まれ、実現したという。「私たちの法案の方にリアリティーがあったから。野党でもかなりできたと思う」(敬称略)

 【井上義久元公明党幹事長インタビュー】

 井上氏に、東日本大震災発生直後の対応や、自ら関わった震災関連法案の成立の背景などについて聞いた。

 あらゆる資源動員しないと対応しきれないと実感

 ―東日本大震災が発生した2011(平成23)年3月11日はどこにいたのか。
 「国会が開いていたので東京の衆院議員会館にいた。立っていられないほどのすさまじい揺れだった。夕方には党の対策本部を設置した。(時間がたつにつれ)現地と連絡が取れなくなっていった」

 「翌12日に党本部で対策本部を開いた後、『現場に行こう』『地元に帰ろう』と思い、車に乗った。行けるところまで高速に乗り、その後は一般道を走った。仙台市まで16時間かかり、着いたのは13日朝だった」

 ―現地の状況は。
 「その足で仙台市の沿岸部に行ったが、あの時の光景は忘れられない。車が家の上に乗り上げ、松の大木が散乱していた。あまりのすさまじさに正直、ぼうぜんとするような状況だった」

 「避難所を何カ所か回ると、『家族と連絡が取れない』と言われることが多かった。仙台市長に会うと『備蓄が3日分しかない。重油の確保をお願いしたい』と頼まれた。その後、周辺の自治体を巡ってから東京に戻り、第1回の会議に出たという流れだった」

 ―第1回の会議とは。
 「政府・与党と野党の合同対策会議で、16日に開かれた。各党の幹事長が出席した。政府は、官房長官が中心だったはずだ。あの時はまだ(出席者の中で自分以外は)誰も現場には行っていなかったと思う。そこで(震災対応の)司令塔をつくれと主張した」

 ―それはどのような思いからだったのか。
 「災害対策基本法では、被災者の救助などは市町村が担うことになっている。それを県が支援する。ところが、役場が流されるなどして市町村の機能がまひしていた。自治体では無理だし、被害は県(の範囲)も超えていた」

 「そうなると国が前面に立ってやるしかない。国が司令塔をつくり、全面的にあらゆる資源を動員してちゃんとやらないと、とても対応しきれないというのが最初の実感だった」

 ―政府の反応は。
 「ピンときてないというか、きちんとした答えが返ってこなかった。東京電力福島第1原発事故が発生し、震災全体の状況が見えていなかったのではないかという気がする。私はあの時、(政府の対応には)リアリティーがないと言った」

 ―リアリティーがないとはどういう意味か。
 「100万人の避難者がいて1食で二つおにぎりを食べるとしたら、1日に600万個が必要だ。周辺自治体もやられているから、誰かが運ばなければならない。そのためにはどうするか。そのような議論がどうにもなかった」

 「例を挙げると、岩手県陸前高田市の支援物資の集積所に行ったら、水もない、お湯も沸かせないのにカップ麺ばかり来ていた。そのような現場とのミスマッチがあった」

 自民党と常に意思疎通、大島氏ともよく連携した

 ―震災当時の公明党は野党で、政府や与党の民主党と距離があったと思う。
 「それはあった。だが、そうも言っていられないので、政府・与党との対策会議を中心として、政府にちゃんと対応してもらうようにした。公明党は当時、市町村単位に担当の国会議員を決め、現場にいる(党所属の)地方議員と連携しながら状況を集約していた」

 「地方議員は自らも被災し、避難所にいる人もたくさんいた。それで(党として)聞いた要望はすぐに答えを返すようにした。そうしないと議員が(被災地で)立っていられなくなる。政府に直接提言したほか、国会審議でも現状を訴え続けた」

 ―党の記録などでは、担当大臣の設置について3月22日、当時の官房副長官だった仙谷由人氏(元衆院議員、18年に死去)に申し入れたとある。
 「彼は事実上、政府の窓口になっていた。私とは国会議員になる前からの長い付き合いだった。(震災直後の)ガソリン確保の問題も、私が仙台から直接連絡したこともあった。非常にいろんなことについて対応してくれた。一生懸命やってくれたと思う」

 「われわれも元々(09年の衆院選で下野する前)は与党だったので、政府でなくても(震災を巡る課題で)関係団体の誰に言えば物事が動くかは知っていた。もちろん直接やったこともあったが、政府からきちんと(動くように)話をしてもらわないと、彼らだって動けなかったんだ」

 「与党というものは覚悟と準備がなければできないということだ」

 ―同じく野党だった自民党との関係はどうだったのか。当時の自民党総裁は谷垣禎一氏(元衆院議員、17年に政界引退)、党幹事長は石原伸晃氏(元衆院議員、21年の衆院選で落選)だった。
 「当時は(自民党と公明党が連立政権を担っている時から両党の意思疎通の場として開いていた、幹事長と国会対策委員長が集まる)2幹2国(の会合)をずっとやっていた。公明党からは幹事長の私と、国対委員長の漆原良夫氏(元衆院議員、17年に政界引退)が出席していた」

 「当時の自民党の中心は、党副総裁の大島理森(ただもり)氏(後の自民党東日本大震災復興加速化本部長、衆院議長。21年に政界引退)だった。2幹2国の会合には必ず大島氏も来ていた。『2幹2国プラス1(大島氏)』の枠組みで話し合えば、まとまるという状況だった。大島氏とはよく連携を取った」

 ―大島氏と漆原氏については(顔立ちの重厚さと両者の親密さから時代劇になぞらえて政界では)「悪代官」「越後屋」といわれていたコンビだった。
 「元々、国対委員長同士だから」

 福島特措法、地元意向踏まえ提案もした

 ―国会の記録などを見ると、当時は復興関連の多くの法案が、与野党間の協議を受けた議員立法で成立している。内閣が国会に提出した法案(閣法)も、国会審議などを踏まえて修正されていた。
 「そうだった。(政府提出の法案では当時の衆参のねじれ国会の運営上などで成立する見通しが)駄目だった時、議員立法で対応した。閣法で出された場合には、きちんと修正してもらった。こちらの(法案を巡る主張に)リアリティーがあったから。そういう意味の対応では、野党ではあったが、かなりできたと思う」

 「例えば(内閣提出の法案として成立した)復興庁設置法などについては、こっちがまず案を作り、政府に示すということが結構あった」

 ―自然発生的にそうなっていったのか。
 「現場のニーズに対して法律がないなら、作らなければいけないということだった。(立法を)政府に言ってもらちが明かないなら、『じゃあこっちで案を作っちゃえ』と。そういうことはあった」

 ―現在の国会運営を考えると、なかなかあり得ないことではないか。
 「そうだね」

 ―本県の復興を定めた福島復興再生特別措置法についてはどうだったか。
 「特措法についても、こちらが(公明党としての)原案を作って提案したりした」

 ―その際、福島県側とはやりとりをしたのか。
 「やった。当時の公明党福島県本部の代表は甚野源次郎氏(15年に県議引退。現在は県本部議長)だった。内堀雅雄氏(現知事)は副知事で、実務の中心だったから、ずいぶんと連携を取って進めたよ」

 ―特措法についての県側の意向が、内堀氏から甚野氏を通じて、井上氏と公明党に上がっていたということか。
 「そうそう。必ずこちらが案を作ったら、甚野氏を通じて福島県側の意向を確認する。そういうことは、福島のみならず、ほか(にも被災した宮城、岩手両県などで)もそうだった。特に福島の場合は、必ず甚野氏経由で(公明党)県本部と、福島県から意見を聞き、反映させた形で提案するということを繰り返しやっていた」

 ―福島県側の意見が反映されるルートの一つだったのか。
 「そうだね。それは今でも。(産業振興の司令塔として政府が設置を検討する)福島国際教育拠点などでも連携を図っている」

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